第 174 回例会講演要旨

酵母のトランスクリプトームを見直す

伊藤隆司
東大・新領域・情報生命

【背景】

 出芽酵母のゲノムは、1996 年にその全塩基配列が決定され、約 6,000 の遺伝子をコードしていると予測された。翌 97 年には、全 ORF を搭載したマイクロアレイが作成され、以来、これを駆使したトランスクリプトーム解析が大いに成果を挙げてきた。しかしながら、それぞれの遺伝子から転写される mRNA の構造は、殆どの場合、明らかにされないままであった。

 この状況を打破すべく、我々はベクター・キャップ法を用いた完全長 cDNA 解析による転写開始点(TSS)情報の組織的収集を行った(Miura F et al. PNAS 103, 17846-17851, 2006)。その結果、3,638 遺伝子に対して 11,575 の TSS が同定され、酵母では単一の TSS を持つ遺伝子は極めて例外的であることが示された。また、45 個の新規イントロンが同定され、隣接遺伝子との間でのオルタナティブ・スプライシングの例も見出された。更に、ORF 間領域に由来する転写物、ORF 内部に TSS を持つセンス鎖転写物、ORF に対するアンチセンス転写物が、総計で約 1,800 種も同定され、これを外挿すると出芽酵母の転写単位は 10,000 近くに達することが予側された。これらのデータはすべて UT Genome Browser(http://yeast.utgenome.org)から公開しており、SGD の GBrowse からも見ることが出来る。

 さて、こうして明らかになった酵母トランスクリプトームの予想外の複雑性は、近年の哺乳類トランスクリプトームの大規模解析によって見出されてきた事象と同質のものであった。つまり、ゲノム全般の活発な転写とそれによる多種多様な非コード RNA の生成は、高等生物に特徴的なものではなくて、むしろ真核細胞に共通の特性であるらしい。であるとすれば、大きな注目を集めているこの分野の研究においても、酵母細胞は優れたモデルとして貢献できるのではなかろうか。


下面ビール酵母が生成する亜硫酸と硫化水素に関する研究

佐藤雅英
サッポロビール(株)価値創造フロンティア研究所

 ビール酵母が発酵中に生成する酢酸エチルや酢酸イソアミルを代表とするエステル、高級アルコール、含硫化合物は、ビールの香りを構成する主な成分であり、これらの含有量や組成比が香味品質に影響を及ぼしている。その中でも、硫化水素をはじめとするメチオニンの代謝系に関与する含硫化合物は、オフフレーバーとして認識されることが多く、その生成量を適正な範囲に制御することが、醸造技術者の課題の一つとされてきた。 ピルスナータイプのビールに使用されている下面ビール酵母(Saccharomyces pastorianus)は、エールタイプに使用される上面ビール酵母(Saccharomyces cerevisiae)と比較して、発酵・貯酒工程における亜硫酸や硫化水素の生成量が多いことが知られている。下面ビール酵母は、Saccharomyces cerevisiae(s.c.タイプ)とSaccharomyces bayanus(s.b.タイプ)のゲノムを含む複雑な遺伝的背景を有する高次倍数体(3〜4 倍体と言われている)であることから、下面ビール酵母がこれらの含硫化合物をより生成する理由として、s.b.タイプの遺伝子の関与や、全く新しいメカニズムが介在する可能性が考えられた。そこで、独自に開発した下面ビール酵母のショットガン DNA マイクロアレイ(SDM)を用い、発酵中に発現しているメチオニン代謝関連遺伝子の解析を成分分析と合わせて実施した。なお、SDM は以下のようにして作製した。

  1. 下面ビール酵母 Weihenstephan34/70 株からゲノム DNA を抽出
  2. ゲノム DNA を物理的に切断し、約 2.5 kbp のゲノム DNA 断片を抽出
  3. ゲノム DNA 断片をベクターと連結してランダムゲノムライブラリーを構築
  4. ランダムゲノムライブラリーから約 20,000 のクローンをガラス基板上に固定化

 本発表においては、下面ビール酵母の s.c.タイプと s.b.タイプの MET3MET5MET10 遺伝子の発酵中の遺伝子発現パターンから、下面ビール酵母が亜硫酸を蓄積する理由について考察する。また、貯酒中に、菌体外に排出された亜硫酸が細胞内に戻り硫化水素に変化する可能性についても議論したい。


ポストゲノム手法による製パン用酵母のストレス耐性機構の解析と分子育種への展開

島 純
(独)農研機構食品総合研究所

 パン酵母製品やパンの製造プロセスにおいて、製パン用酵母には多様な環境ストレスが負荷される。具体的には、労働の軽減等に有効な冷凍生地製パン法における冷凍ストレス、高糖生地パンの製造過程における高濃度ショ糖ストレス、ドライイースト製造過程における乾燥ストレス等が挙げられる。これらストレスに対して高度な耐性を有する製パン用酵母の開発は、製パン用酵母に関連する工業プロセスの簡易化や生産効率の向上に強く貢献することが可能である。

 以上のような背景から、我々の研究グループでは、高度ストレス耐性酵母の作出に向けて、ゲノム情報を基盤とするポストゲノム解析及び分子生物学的技術を複合的に適用した分子育種技術の確立に取り組んでいる。

1. 製パンストレス条件におけるポストゲノム解析

 実用的な製パンプロセスを想定したストレス条件(冷凍、高ショ糖濃度、乾燥)において、遺伝子破壊株コレクションを用いた表現型解析及び DNA マイクロアレイを用いた遺伝子発現解析を行い、ストレス耐性に重要な遺伝子群の同定を試みた。

 まず、表現型解析により、ストレス耐性に必要な遺伝子の網羅的な検索を行った。冷凍ストレス条件における解析の結果、冷凍ストレス感受性を示した遺伝子破壊株の多くが過酸化水素及び細胞壁形成阻害剤に対しても感受性を示すことが明らかになった。したがって、冷凍ストレスに伴い、酸化ストレスと細胞壁への物理ストレスが負荷される可能性が考えられた。高ショ糖ストレス条件における表現型解析により、プリン合成系遺伝子の破壊株は、ソルビトール及び NaCl による高浸透圧ストレスには感受性を示さず、ショ糖による高浸透圧ストレス特異的に感受性を示した。乾燥ストレス条件における表現型解析では、V 型 ATPase とミトコンドリアの機能が乾燥ストレスに重要である可能性が示された。今回、解析した全てのストレス条件において、V 型 ATPase に関連する遺伝子の破壊株がストレス感受性を示したことから、液胞酸性化機能が製パンストレス環境における耐性に極めて重要である可能性が示唆された。

 遺伝子発現解析では、各ストレス条件で特異的に発現変化する遺伝子の同定を試みた。冷凍ストレス及び乾燥ストレスを負荷した場合に、変性タンパク質の修復や分解に関わる遺伝子の発現上昇が観察された。これらのことから、冷凍及び乾燥ストレスによりタンパク質の著しい変性が生じている可能性が示唆された。また、乾燥ストレス条件では、脂肪酸のβ-酸化系遺伝子の特異的な発現誘発が観察された。高ショ糖ストレス条件における解析により、トレハロースやグリセロール等の細胞保護物質の生合成遺伝子の発現が特徴的なパターンを示すことが明らかになった。これらの結果は、ストレス環境に対する細胞応答を反映していると考えられる。これらの網羅的遺伝子解析の結果は順次データベース化し、食品総合研究所のホームページ(http://nfri.naro.affrc.go.jp/yakudachi/yeast/yeast_index.html)上で公開を進めている。

2. セルフクローニング型遺伝子改変による分子育種及び新規遺伝子の特性解明

 ポストゲノム解析で同定したストレス耐性に関与する遺伝子に関して、他の生物種の遺伝子が導入されないセルフクローニング型遺伝子改変手法による改変を試みた。高濃度ショ糖ストレス耐性に重要な役割を果たすことが示唆されたタンパク質脱リン酸化酵素やアルデヒド脱水素酵素をコードする遺伝子を実用パン酵母において改変したところ、ストレス条件における発酵力の著しい向上が観察された。また、ポストゲノム解析により、新規なストレス耐性に関与する遺伝子を見出すことが出来た。現在、EOS1 等の新規ストレス耐性遺伝子の機能解析を試みている。


清酒酵母きょうかい 7 号のゲノム解析とその結果を利用した醸造特性の解析

下飯 仁
独立行政法人酒類総合研究所 醸造技術基盤研究部門 副部門長

 清酒(日本酒)は、米のデンプンを麹菌の酵素で糖化し、生じたブドウ糖を清酒酵母で発酵させて製造する。清酒酵母は酒類の主成分であるエタノールばかりでなく様々な香味成分もつくるので、清酒酵母は製品の生産性と品質に決定的な影響を与えている。清酒酵母は分類学的には Saccharomyces cerevisiae に属しているが、同じ種に属している実験室酵母や他の醸造用酵母とは異なる性質を数多く持っている。このため、清酒酵母は S. cerevisiae の中で独立した 1 つのグループを形成していると考えられる。我々は、清酒酵母の特性を遺伝子レベルで解明し、その結果を清酒酵母の育種に役立てることを目的として研究を行っている。

 清酒酵母の特性をゲノムレベルで解明するために、独立行政法人酒類総合研究所を中心とする産官学 26 グループで構成される清酒酵母ゲノム解析コンソーシアムと独立行政法人製品評価技術基盤機構との共同研究により清酒酵母きょうかい 7 号のドラフトレベルでのゲノム解析が行われた。その結果、きょうかい 7 号のゲノムと実験室酵母 S288C のゲノムとの一致度は塩基配列レベルで 96.2% であり、両者は非常によく似ていることがわかった。しかし、逆に言えば、残りの数 % の違いの中に清酒酵母の特徴が潜んでいると考えられる。

 生物の遺伝的特性は質的形質と量的形質に分けることができるが、清酒酵母に特徴的な質的形質としては、高泡形成やビオチン合成能を挙げることができる。我々は今までに、これらの形質がそれぞれ AWA1 や BIO6 という清酒酵母特異的な遺伝子によって支配されていることを明らかにしてきた。今回のゲノム解析の結果から、他にも清酒酵母に存在し他の酵母には存在しない遺伝子や、逆に、実験室酵母 S288C のゲノムには存在するが、清酒酵母のゲノムには存在しない遺伝子が見出されている。現在これらの遺伝子の機能について検討中である。

 一方、量的形質は、エタノール発酵性や香味成分の生成量などのように連続した数値で示される形質であり、複数の遺伝子の支配を受けていることが特徴である。量的形質には産業上有用な形質が多いので、これらの原因遺伝子を解明して行くことが、今後の清酒酵母育種には重要であると思われる。量的形質を支配している遺伝子座を量的形質遺伝子座(QTL)というが、QTL の解析は、染色体上の多数の DNA マーカーと形質との連鎖解析によって行われる。我々は清酒酵母の醸造特性を支配している QTL の解析のために、清酒酵母の一倍体を分離し、実験室酵母の一倍体と掛け合わせた後、胞子分離を行い、多数の一倍体を得た。現在、得られた一倍体の醸造特性と DNA マーカーとの連鎖を解析している。


麹菌に特有な遺伝子と発酵

町田雅之
産業技術総合研究所 セルエンジニアリング研究部門

 麹菌は、酒、味噌、醤油、酢などの日本の伝統的な発酵産業に広く利用され、「国菌」とも呼ばれる日本の代表的な産業微生物である。また最近では、麹菌が有するタンパク質の高い分泌生産能力を利用して、バイオテクノロジーによる酵素生産にも利用されている。また、日本での麹菌の長い食経験から安全であることが確認されており、麹菌を利用した物質の生産方法が米国 FDA のリストにも掲載されていることなど、麹菌は世界的にも安全な微生物と認識されている。麹菌の優れた性質のひとつとして、多様で多量の加水分解酵素を分泌することが上げられる。日本の伝統的発酵産業では麹菌を用いてデンプンやタンパク質を分解しているが、これらの物質を水溶液あるいは懸濁状態で用いるのではなく、蒸すなどして水分を含ませた固体の状態で発酵を進めることに特色がある。これは「麹(こうじ)」と呼ばれる固体培養法であるが、麹菌は固体培養において液体培養時よりも大量の酵素を分泌生産することが知られている。麹菌が固体培養で効率的に酵素を生産する仕組みの解析が勢力的に行われており、既にグルコアミラーゼなどが固体培養特異的に誘導されることが分かっている。

 麹菌のゲノム解析は 2005 年末に完了し、その成果は、国内外の学術機関、大学で広く利用されている。また、ゲノム塩基配列を基盤として、DNA マイクロアレイの開発やマススペクトルなどを用いたプロテオーム解析も行われ、研究の有力なツールとなっている。麹菌と他の近縁種の A. nidulansA. fumigatus との比較解析によって、麹菌はこれらの 2 種よりも 25〜30% 大きなゲノムサイズを有し、増加した遺伝子の多くが non-syntenic block(NSB)上に位置することが明らかとなった。また NSB 上には、二次代謝系や加水分解酵素をコードする遺伝子が集積していることが解明された。そこで、DNA マイクロアレイを用いて、固体培養を含む様々な条件で遺伝子発現を解析した結果、NSB 上の遺伝子には、固体培養で特異的に誘導される物が多く存在することが明らかとなった。また、ヒートショックの状態では、syntenic block(SB)上の遺伝子は誘導される遺伝子が多く存在するに比較して、NSB 上の遺伝子の多くはその発現が抑制された。さらに、固体培養において誘導される遺伝子の種類を解析した結果、固体培養において高く発現が誘導される遺伝子は、主として分泌性の酵素遺伝子群であることが分かった。一方、同じ NSB 上に存在する遺伝子であっても、二次代謝系の遺伝子は固体培養において誘導されなかった。醤油の生産時には、製麹(せいきく)時に時々麹の混合(手入れ)を行うが、この時の温度の低下によって NSB 上にコードされた加水分解酵素の発現が誘導されているのかもしれない。以上より、麹菌が特徴的に有する NSB 上の遺伝子は、麹菌が発酵産業に利用される際に、重要な役割を担っていることが示唆された。


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