酵母細胞研究会の発足

 「酵母細胞研究会」の歴史は永く、前にも書いたように私が酵母を材料とする研究を始めた頃には既に 100 回を越えていました。ただ、このような会の性格上、毎回の研究会は充実していてもその記録が残ることが少ないのが残念です。運営委員の手許の資料から、これまでの講演者とタイトルの一部を発見できたので、ホームページで公開しました。それを見ると、先輩方の先駆性と充実性を兼ね備えた活動が伝わってきます。この会がいつどのように始まったかに興味をもちましたが、現在の参加者の方々に伺っても明確なことは分かりませんでした。この度、この会に最初から関わってこられたキリンビール元副社長の山本康氏に、発足の経緯などをおまとめ頂くことができました。いただいた原稿は、資料として貴重なばかりでなく、45 年前の先輩方の熱意と活躍ぶりをいきいきと伝えるものです。山本氏のお許しを得られましたので、ここに掲載いたします。また、補足すべきことがみつかれば、今後も追加掲載してゆきたいと思います。ご意見・資料等がございましたら、ご連絡いただけると幸いです。

酵母細胞研究会会長(執筆当時の役職) 依田幸司

酵母細胞研究会の発足

(平成 14 年 2 月 8 日)山本 康

1. 発足のきっかけ

 昭和 34 年(1959 年)頃、「日本遺伝学会東京談話会」(註 1) で湯浅明先生(当時東大教養学部教授)(註 2) が、米国の SOUTHERN ILLINOIS 大学の DR. LINDEGREN との共同研究の様子を報告された(於東大理学部植物教室)。お話の最後に、「彼の大学には、酵母の集まりがあり、広い範囲の酵母研究者が時折集まり、夫々の専門分野から話をし、討議をしていて、大変羨ましい。」と感想を述べられた。

 先生は、話が終わり、教室の一番前の席に座られ、「東京にも、あのような集まりが出来ないでしょうかね?」とおっしゃりながら、後ろを振り向き、直ぐ後ろの席におられた塚原寅次氏(醸造試験所)に「塚原さん、一つお世話願えませんかね」と言われた。塚原氏は、「いや、私などは、」と遠慮されて頭を下げられたら、その後ろの席に小生がいて、先生と顔が合った。先生は直ちに、「あっ、山本さん、どうですか、ビール会社でお若いけれど、よくこの会にも出て来られるし」とか言われた。小生は、ただ「ハッ、ハイ」と縮み上がって返事をしたのが、発足に繋がった。

2. 発足まで

 先生のご希望を伺うと、大学・企業や専門分野も制限を設けず、酵母を手掛けている人すべてを対象とした研究会とし、頻度高く会合を開きたいとのこと。

 小生はといえば、昭和 27 年(1952 年)秋にビール工場の製造現場から、研究所に移り、ビール酵母の育種をテーマに、当時としては最新式のマイクロマニプレーターを扱い、酵母の胞子作りやその単離、融合などの基礎的な実験を終わり、ビール酵母に望まれる形質とその測定方法などに悩んでいたので、酵母について広い分野の専門家から、多様な情報を直接伺うことが出来るのは、極めて望ましいことに思われた。

 そこで、存じ上げていた、醸造試験所の塚原氏、当時長尾研究所(註 3) の椿・曽根田両氏、東大農化の斎藤氏、などのご賛同・ご助言を得る一方、生理関係と会場や何かの折の経済的なバックアップも考え、恩師の東北大植村定次郎先生にもご教示を願い、農林省食品研究所の佐藤友太郎氏(イースト工業会に関係されていた)・オリエンタル酵母工業の林部正也氏なども紹介して頂いた。又、当時、酵母の抗原・抗体反応による分類を進められていた順天堂大学の土屋毅先生にもお願いし、助教授の深沢義村先生が相談に乗って下さった。植村・斎藤先生、佐藤氏・林部氏からは、次々と、酵母研究をしている企業の幾つかのご紹介を頂いた。

 これらの方々とお話を重ねて行く中で、大まかなイメージが出来て来て、本郷の学士会館一室で、発起人会的なものを開催することになった。期日の記憶はありません。恐らく、始め話が東京談話会であってから、半年内外だったと思います。

メンバー:湯浅先生を含む前記の方々 10 名位。

決めた事:

  1. 分野を定めず、酵母に関する研究総てを対象とした研究会を始める。
  2. 発起人会メンバーを運営委員(?)とする運営委員会(?)を設置し、研究会の運営に関する基本的事項の討議・決定の場とし、運営委員は、併せて研究会の演者の推薦、会場の紹介を行う。
  3. 研究会は隔月(?)に開催し、研究者の発表(1 回に 2 題程度)を伺い、自由に討論する。発表研究の対象は、酵母を主とするが、酵母研究に示唆を与えるものであれば、酵母に限定しない。
  4. 会場は持ち回りとし、運営委員の努力により可能な限り無償の提供を受けるようにする。
  5. 参加を希望する者は、申し出でにより会員となり、研究会の案内を受けることが出来る。伝え聞いて当日参加することも可能。
  6. 会費は、その都度研究会会場で出席者全員から徴収し、当日の会場費・茶菓代・通信費を賄う程度の金額(200 円位?)として、原則として資金を会は持たないこととする。
  7. 運営委員は、実際にアクティブに研究を推進している助手・助教授級の方 を選び、原則として教授は運営委員としない。
  8. 研究会の名称を「酵母細胞研究会」とする。
  9. 事務連絡場所(事務局?)を差当たりキリンビール研究所とし、山本が連絡その他の処務的業務を担当する。

 大体、こんな所だったでしょうか。名称の「細胞」の字句は、湯浅先生のご希望であったことを覚えています。

3. 発足後

 第 1 回の研究会については、期日・会場・湯浅先生のご挨拶・発表など、総て覚えておりません。恐らく、湯浅先生自ら、酵母細胞のご研究の話をされたのだろうと推測しております。

 小生の役割は、電話やハガキで、次回の演者候補を聞き、他方、貸して貰える会場を聞いて、両者を併せて案内状を、ガリ版で往復葉書に印刷し、発信し、集まった返信ハガキの出席者を会場に報せ、当日は、会場に行って準備を見て、出席者・入会者のリストへの記入・会費の徴収などのお願い、などだったので、相当時間が潰れました。よく上司が見逃していてくれたものです。多分、3 年近く続けたのではないかと思います。

 会場・演者が決まらず困ったこともありましたが、運営委員の方々や会員の方に、大変熱心にこの会を支持して頂き、会場・演者で休会になったことはなかったと思い、感謝しております。

 会場としては、東大理学部植物教室・日本女子大学・国税庁醸造試験所・キリンビール東京工場などが定例的に使用出来た場所で、この他、味の素食品センター(?)(京橋宝町、高橋雅弘氏)、旭化成東京事務所(?)(日比谷、お世話頂いた方を忘れました)、大日本製糖横浜工場(新子安、大沢・郡家徳郎氏)、協和発酵東京研究所(東北沢、木下祝郎氏)、明治製菓川崎工場(川崎、小疇吉久氏)、野田産業研究所(野田、大西博氏)その他多くの方(若しかすると、重要な方を忘れているかも知れません)のお世話になりました。夏はキリンビール東京工場で、研究会後のビヤパーティを、冬は、醸造試験所で鑑定会に集まったお酒を頂く会を開くのが、何時の間にか恒例になって行きました。

 先生方では、山口英世、駒形和男、須藤恒二(家畜衛生研究所)、杉村隆(ガン研究所)、野白喜久雄・秋山裕一(醸造試験所)、柳田友道(東大応微研)、阿部重雄(東大→協和発酵)、平野 正(東大教養学部)、倉石衍(東北大学→東大応微研)、大隅正子などの諸先生のご協力を思い出します。(運営委員になって頂いた方も多い筈)

4. 他の酵母に関する研究会その他

東北大学農学部を中心とする集まり

 発足に当たり、内々で植村定次郎先生のご指導を受けた関係もあり、酵母細胞研究会の話は、東北大学農学部を中心に、比較的早く伝わり、倉石衍・樋口昌孝・奥田慎一などで酵母研究者の集まりを作られ、「酵母細胞研究会」の会員となり、東京の例会で演者になって頂いたこともありました。

関西の「酵母研究会」

 「酵母細胞研究会」が発足して間もなく、大阪大学医学部で「日本遺伝学会」が開催されました。その中で、微生物遺伝のセッションがあり、セッション終了時に、斎藤日向先生が「微生物遺伝集談会(?)」の結成を、聴衆に呼びかけられました。予め、斎藤先生からこのご発言のあることを伺っていましたので、お願いしてその後に、小生からも発言のあることを、斎藤先生に紹介して頂きました。

 小生は、「東京では、このような趣旨で酵母細胞研究会なるものが発足している。関西は日本の酒処でもあり、京大・阪大を始めとする各大学や、多くの酒造会社で、産学を問わず貴重な研究が活発に行われて来ている。農芸化学を中心とした金曜会も盛んであると伺っている。是非、関西にも酵母の研究会をお造り頂くようお願いしたい。ついてはご関心のある方はお残り頂きたい」とお願いをしました。

 幸にして、芦田先生(京大)、長谷川武治先生(武田発酵研)・永井進先生(奈良女子大)他数人の先生がお残りになり、小生の話を聴いて下さいました。関西の「酵母研究会」が発足したのは、その数ヶ月後であったと記憶していますので、元々その気運はあったのでしょうが、少しはお役に立ったかも知れないと、若さ故の無謀さを恥じると共に、斎藤先生に感謝しています。

 

 その後、広島にも酵母の研究者の集まりが出来、又、阪大の大嶋泰治先生を中心として出来た「酵母遺伝学集談会」なども含めて、「酵母合同シンポジウム」の関東・関西交互開催などに発展して来たように思います。

 昭和 47 年(1972 年)に、「第 4 回国際発酵シンポジウム」が京都であり、それに続いて「酵母に関するポストシンポジウム」を、東京で酵母細胞研究会主催で開催出来たのも、企業の会員の方々の経済的協力を得られたお蔭でした。急にそのような話になり、京都の国際会議場を駆け回って皆様のご賛同をお願いしたことを思い出します。

 思い出しながらの書き下ろしで、「酵母細胞研究会の発足」以外の事まで及んでおります。記憶違いも多いと思います。間違いを正し、不必要な部分は削除願います。以上


(註 1) 日本遺伝学会東京談話会
日本遺伝学会の会則第 9 条に、「本会は各地に談話会をおくことができる」とあり、当時の会誌「本会記事」欄には、札幌・仙台・東京・新潟・三島・松本・名古屋・京都・大阪・岡山・広島・福岡で、それぞれの談話会が開かれていた記録がある。活発なところでは隔週であった。
(註 2) 湯浅明先生
東京大学教養学部名誉教授 湯浅明先生 は、平成 14 年 1 月 5 日(土)にご逝去されました。享年 94 歳でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
(註 3) 長尾研究所
長尾キンヤ氏(わかもと株式会社社長)を理事長として昭和 16 年頃設立され、菌株の収集・保存・配布の事業を行った財団法人。長尾氏が基金を醵出して設立し、阪大斎藤賢道先生が参加、藪田貞治郎先生も関わられ、東大を退官された小南 清先生が所長になられた。戦後、椿啓介氏・曽根田正巳氏等が参加。酵母・黴が多く、野生株も豊富で、昭和 40 年頃までは、この分野では最も充実した菌株保存機関であった。日本微生物株保存機関連盟(JFCC)結成(1951)の折には、準備段階より主要メンバーとして参加し、小南先生は、設立時の理事、1953-1957 年は理事長を勤められた。JFCC 設立と同時に開始された日本国内保存菌株調査を小南先生が担当され、全国 144 機関、251 研究室から回答のあった 22,300 余株につき、学名・保存番号・来歴などを整理、「国内微生物株総目録」として、文部省から出版(1953)した。その後、椿啓介氏が、(財)発酵研究所(武田薬品)に移られた折、主要保存株は、発酵研究所に移管された。

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