追悼 地神芳文先生

 既にお知らせのように、本研究会前会長・現顧問を務めておられた地神芳文先生が去る 9 月 7 日に病気のため逝去されました。九大で開催された酵母遺伝学フォーラム研究報告会から戻ってすぐこの悲報に接して言葉もありませんでした。地神先生より会長職を引き継いで 2 ヶ月でお別れしなければならないとは、研究会を運営していく上でまだまだご教示頂かねばならないことがたくさんあったというのに、何とも残念でなりません。地神先生が成し遂げられた数々のお仕事の中でも、基礎研究の素晴らしい成果を応用研究へと見事に結実されている事が第一に挙げられるのではと思います。その意味でも、地神先生という存在を失ってしまったことは、酵母細胞研究会のみならずこれからの日本の酵母研究に大きな痛手となってしまったと感じています。しかし、残された我々は地神先生のご遺志を継いで、酵母研究で素晴らしい成果を上げるとともに、酵母細胞研究会が日本の酵母研究の発展に貢献できるよう務めていかねばと心を引き締めています。

 謹んで地神先生のご冥福をお祈りするとともに、どうか日本の酵母研究と産業の発展を見守って下さるよう心よりお願い申し上げます。

2011 年 9 月 28 日

酵母細胞研究会会長 西沢正文 

地神芳文先生のご逝去を悼む

 9 月 7 日の夕刻、同僚の千葉さんからの電話で、地神芳文先生がお亡くなりになったことを知らされました。ご子息の貴史さんから受けたメールによると、亡くなられた時刻は 10 時 25 分。このとき私は、酵母遺伝学フォーラム第 44 回研究報告会で九州大学におり、「オルガネラ・形態形成」のセッションを聴いていました。このセッション後の休憩時間に、西沢正文会長と、地神先生のご体調について話していたのですが、まさか、このときすでに……、ということになっていようとはと、後で考えてよけいに悲しくなりました。

 地神先生は、1976 年 4 月に、工業技術院東京工業試験所に入所されました。その後、1979 年 9 月に工業技術院化学技術研究所の研究員となり、米国留学を経て、遺伝子組換え技術を用いた研究を初めて通産省系の国立研究所に導入しました。1986 年 4 月より工業技術院化学技術研究所遺伝子工学課長、1993 年 1 月より工業技術院生命工学工業技術研究所遺伝子工学研究室長、1995 年 5 月より同・分子生物部長、1996 年 6 月より同・首席研究官、1999 年 3 月より同・次長、2002 年 6 月より独立行政法人産業技術総合研究所糖鎖工学研究センター長を歴任されました。研究所名はたびたび変わりますが、これは組織改編によるもので、地神先生の研究の地はずっとつくばで変わりませんでした。

 この間の先生の代表的な業績としては、ヒト・リゾチームをコードする DNA を化学合成し、これを酵母で活性を保ったまま発現させるという仕事を世界で初めて成し遂げ(Jigami et al., 1986, Gene 43, 273-279)、また、出芽酵母の N-結合型糖鎖合成において、ゴルジ体での糖鎖付加のキー・エンザイムとなるα-1,6-マンノース転移酵素をコードする OCH1 遺伝子を単離し、その解析を行った(Nakayama et al., 1992, EMBO J. 11, 2511-2519)、等が挙げられるでしょう。研究を代表するキーワードは「酵母」と「糖鎖」で、アカデミックで基礎的な研究を行うとともに、その応用についても常に考え、基礎研究と応用研究とを高次元に両立させるという研究スタイルを貫かれました。このため、「有用蛋白質の分泌生産系及び糖鎖修飾系の開発に関する研究」に対して 1994 年 6 月に工業技術院賞が、「酵母の糖鎖生物学および糖鎖工学に関する研究」に対して 2007 年 3 月に日本農芸化学会功績賞が授与されています。1991 年からは筑波大学大学院生命環境科学研究科の教授として教育指導にもあたられ、大学院生を育成し、研究室から幾多の優秀な研究者を輩出することとなりました。酵母細胞研究会の会長には 2009 年 7 月に就任され、また、翌年 6 月の第 19 回酵母合同シンポジウムの実行委員長として、シンポジウムを盛会のうちにまとめ上げました。

 地神先生の力量は学術面にのみ留まるものではなく、国家プロジェクトの遂行という面でも遺憾なく発揮されました。その代表的なものは、平成 3 年から 10 年間にわたって行われた通産省初の糖鎖プロジェクト「複合糖質生産利用技術」です。先生はプロジェクト全体の研究開発責任者として、民間企業 5 社と生命研との共同研究を推進、酵母によるヒト型糖鎖の合成などのチャレンジングなテーマに挑戦して大きな成果を挙げられ、プロジェクトを成功裡に収めました。これが発端となり、以後、通産省(経産省)の糖鎖関連プロジェクトが連綿と続いていくこととなります。

 私が地神先生のもとで仕事をするようになったのは 1995 年からで、16 年ほどの時間をともに過ごしてきたこととなります。私が入所した当時の先生は、酵母における糖鎖合成研究の分野で大活躍する一方、糖鎖プロジェクトの運営に力を注ぐという、多忙な日々を送られておりました。だんだん昇進されるにつれて、研究所の幹部としての業務も増え、多忙さにはますます拍車がかかっていきましたが、それでも先生は、現場でのディスカッションをおろそかにすることはなく、研究の進捗状況を報告するミーティングの時間を何よりも大切にされていました。ミーティングでは、研究内容については先頭を切って鋭い質問やコメントをなさるものの、それは決して発表者を意気消沈させるような内容ではなく、常に前向きなものでした。そのようなこともあり、研究室の雰囲気はとても良いものでした。

 研究以外のことがらにも、地神先生は常に前向きに、全力で取り組んでおられました。気さくな人柄で、研究室の飲み会では、夜中過ぎのカラオケ、ラーメンでの「締め」までしっかりとおつき合い下さいました。研究所の糖鎖センターの、チーム対抗ソフトボール大会では、お揃いの、先生の顔のプリント入り T シャツを作って試合に臨んだものです(ちなみに先生のポジションはファースト)。2008 年 2 月に開催された「地神芳文先生ご退職記念祝賀会」は、筑波山の中腹の旅館で泊まりがけという、のべ 2 日にわたる会でしたが、これに全国から地神研出身者が参集し、40 名もの規模となったのも、先生のお人柄のなせる結果であったと思われます。このときにも地神先生は、夜中過ぎまでカラオケにつき合って下さり、あらためて先生のタフさを実感したものでした。

 しかし、このようにタフな地神先生も、病魔を打ち負かすことは難しかったのです。酵母細胞研究会の会長に就任されてからしばらく後、今から 1 年半ほど前でしょうか、ご自身が完治困難ながんであることを私に語ってくれたときの、ちょっと困ったような、寂しいような表情を、今でも忘れることができません。先生のお通夜の席で会った、地神研 OB の一人が「まだ恩返ししていないのに」とつぶやいたのには、心からその通りだと思いました。余りに早すぎる地神先生の旅立ちは、とにもかくにも「残念」としか言いようがなく、とても悲しく感じています。

2011 年 9 月 28 日

横尾岳彦(産業技術総合研究所・糖鎖医工学研究センター)